シナモンロールとカフェオレ

儚くも甘く美しい現実に 夢を見る

この気持ち、「儚さ」だったのか ~SHOCKとサントラと光一さん

 

こんにちは。前回の記事がこのめんどくさがりな私のブログ人生最初で最後の投稿とならずに済みそうだ(次に恐れるのは3日坊主☆)

 

なぜなら、昨日初観劇したSHOCKについてまだまだ語りたくてしょうがないからだ

初観劇の率直な感想についてはこちらの記事を参照…していただくほどの価値はないと思うが、もし何かどーーにも暇を持て余していてやることがなさ過ぎて気が狂いそう、ということであればご覧くださいという程度のものだ。がせっかく時間かけて書いたので一応リンクを貼る。

nkojall.hatenablog.com

 

上記の記事の中でも登場する、私をKinKi沼に誘った布教主の友人というのは人間としてもそうなのだが布教主として大変かっこよくて毎度惚れ惚れする。

 

今回の初観劇にあたり、SHOCK関連の円盤作品は観劇後に貸すからまずは生を見届けてくるようにと言われていたのだが、初観劇当日を迎えるほんの数日前に、その友人から連絡があった。

 

「観劇してから次会えるまでに時間開いちゃうけど、観たら絶対聴きたくなるだろうから先に貸しとく」

と、わざわざサントラを貸しに来てくれると言うのだ。

 

イケメンかよ。泣いた。

(このイケメン布教主の伝説はまだまだあるのでのちに機会があればぜひ書き綴りたい。)

 

お言葉に甘えてお借りし、観劇前日にしっかりスマホに入れて、しかし聴くのは翌日の終演後までのお楽しみとした。

 

結果、友人の細やかな配慮には深く感謝することとなった。

 

だって終演直後からもずっとその音楽を通して作品の世界観に浸れるだなんて。これ脳内再生じゃないよね?と何度耳を疑ったか知れない。あぁ、サントラが発売されているという素晴らしい現実。オリジナル作品だとこういうことができるのか。いいな。

 

私はついさっき初めて耳にした音楽を繰り返し繰り返し聞きながら、さっきまで見ていたストーリーや雰囲気を脳内でなぞりながら、電車に揺られていた。揺られながら、なんだか言葉にできない、胃のあたりがきゅーっとするような、胸が締め付けられるような、泣きたくなるような気持ちになった。この感情って何なのだろう、と頭のどこかで思いながら、余韻に浸っていた。

 

なんだかふわふわした気持ちのまま無事に家に辿り着き(お家に帰るまでがEndless SHOCK)、「そうだ、イヤホンではなくてオーディオで聴いてみよう」と思い、友人に借りたサントラCDを手に取ると……ん?なんかDVDも入ってるやん。 

(以下リンクは通常版だが友人に借りたのは初回盤)

 

どうやら、光一さんのインタビュー映像とSHOCKのダイジェスト映像が収録されたDVDらしい。存在に気づいていなかったので自分的にはちょっとしたサプライズ感も感じつつ、プレーヤーにディスクを入れて再生してみた。

 

その中で。

 

私はとあるところで、恐怖にも似た驚きを覚えることになる。

だって、私がさっきぼんやり考えていた「この気持ちなんだろう?」の答えを画面の向こうで光一さんが言っていたから。

 

それは、光一さんの思う「サウンドトラックとは」という話題のなかで起こった。

 

 もちろん映像で見るのもいいし、もちろん何よりも舞台で生で観ていただくのが一番いいんだけど、音楽だけで聴くとより自分の中で情景が浮かぶときって、なにかこう、どこかこう…儚い気持ちになるって言うか。なんかその感じがサウンドトラックって好きなんですよね。…説明難しいけど。自分はサウンドトラック聴くときってそういう聴き方するんですよ。

  ー『Endless SHOCK Original Sound Track 2』初回限定版 DVD より

   (映像での光一さんの言葉を筆者が文字に起こした。)

 

 

「儚い」

 

この言葉を聞いて、私はついゾッとしてしまった。一瞬頭が真っ白になり、時間差で「…んん~~~~~~~~~~~。」となんかとても低い、例えるならば牛さんのなき声みたいな謎の声が出た(深い頷きの意)。

 

そうか…これって「儚い」っていう気持ちだったのか……!!!!!

 

舞台は生ものであり生き物だ。全く同じ空間は二度と再現することができない。例え自分が見た公演が映像化されたとしても、自分がそこにいて観て、聴いて、感じたものとはまた違った切り取り方をされているという意味では絶対に、二度と、同じものを観ることはできないのだ。そこにまず「儚さ」がある(この「儚さ」には以前から気づいていた)。

それが舞台の面白さだし、だからついつい同じ作品に何度も足を運びたくなってしまうのだが。

 

しかし唯一、ある意味で、「自分が見たもの」を再現できる方法がある。それは、記憶を辿ることだ。そういう意味では、この場合事実とは異なってしまっていても、自分の中で反芻する分には問題ないのかもしれない

 

この、反芻という作業に、実際の音源を収録したサウンドトラックがあると、より鮮明に思い起こすことができるのだなと思った。だから、逆に、より儚いのだ。

 

サウンドトラックというものは元々好きで、ミュージカルに限らずドラマや映画のサントラも気に入ると購入してきたし、購入に至らないにしても気づくとサントラが頭の中に流れていたり、バラエティー番組などでサントラが使われているとそれが何の作品のものだったか、一度聞いたことがあるものだったら大体思いだせるほどには好きだ(そういえばうちの母も若いころからサントラ狂で、コレクションの中には名曲もあれば「何でこれ買った?」と突っ込まずにいられないようなものまである。やはりそういうところも遺伝するのだろうか)。

 

サントラを聞いていると、その作品の世界にまるで自分が入ったかのような感覚になれて幸せな気持ちになるし、あのシーンがどうだったとか思い出せて楽しい。なのに、このなんか胃がキューっとなるというか、胸が苦しくなるというか、泣きたくなる感覚は何?どこから来てるの?というぼんやりとした疑問は思い返せば以前から抱いていた。

 

サントラに限らず、この感覚自体は音楽を聴くと時々出てくる。何なら物心ついたころから感じることがあったこの感覚だが、何て言ったらいいのか分からないし、自分だけなのかなと思って特に人に話したこともなかった。

 

それを、だ。考えてもみてほしい。

今回のこの名前の分からぬ感情を抱かせる原因となった作品の、サントラの、作り手かつ、歌い手である、堂本光一さんに、さらっと言語化されてしまったのである。

 

 

もちろん画面を通してではあるが、この際そんなことはどうでもよい

 

これを受けて、自分の中で感激したことが二つある。

 

一つは、ここまで延々と語ってきた、名前の分からないこの感情が「儚い」というものだったということが分かったこと。

 

もう一つは、その感情を共有し、言語化してくれたのが光一さんだったということである。

 

単に、自分がファンをやっている相手から言われたから、ということではない(といえば嘘になる)。それだけじゃない。

作り手であり歌い手である光一さんが、聴き手がこれを聴いてどんな感情になるのかというところまで想像して作っているということが分かったからだ。

 

 

さらに細かい話をすると、そのプロフェッショナルなところに感激したということもあるし、

…これまで私はこういう感情を抱いているのは聴き手側の自分だけだと思っていた。だからこの複雑な感情の中に「泣きたくなる」という感情も含まれていたのかもしれない。聴き手側の、一方的な思いだと思っていた。

 

ところが、その感情を作り手、歌い手の光一さんも知っていたのだ。こちら側の一方的な感覚じゃなかった。私は、光一さんの言葉によって、自分が長年抱いてきた謎の感情に「儚い」という名前を授けてもらったと同時に、その中にあると思ってきた「寂しさ」という感情を消してもらったのである。

 

光一さんは、そんな気持ちになれるからサントラって好き、とも言った。本気で作品作りをする光一さんをはじめとする作り手のみなさんが、そんなことを考えて作った作品。それが、Endless SHOCKなのであり、このサウンドトラックなのだ。

 

これからも私はこの新しく名前の付いた感情をいとおしく思いながら、サントラライフに浸っていきたい。

 

…はあ。またひとつ新しい沼に足を踏み入れてしまった。

 

 

 

…余談だが、これを書きながら初めて認識したのが、「儚」という字は人偏に夢と書くのかということ。ちょっとこの言葉についても調べてみたいと思う。